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冬の日差しは、穏やかながらも、少し先にある春を予感させて、暖かな眼差しを投げこんでくる。
 小春日和の王宮を、ゆっくり歩きながら、アイシュは何とはなしに微笑んでいた。
 今日は思いの他仕事が捗(はかど)った。スムーズに進む書類業務に、以前からの懸案もさくさくと処理が進み、日ごろの苦労が報われる実感を味わう。
 こんなに何もかもが上手くいってしまったら、後で何か恐ろしい事でも起こるのではないだろうか?なんて、思わず心配してしまう、自分の苦労症に苦笑を洩らして、落とさないように胸に抱えた書類の束を、もう一度しっかりと持ち直す。
 これが今日中に済めば、言う事なしの一日なのだが、と、やはり一抹の不安は拭い様が無かった。
 彼が運ぶ書類。これこそ、筆頭魔導士への承認物。
 常日頃は、無人の机に虚しく置かれるだけの代物である。
 しかし今日は、めずらしく執務室へ腰を据えた魔導士が、部下達が大雪の心配をするのを尻目に、ものすごいスピードで溜めに溜めたデスクワークをこなしているらしい。
 さもありなん、と、アイシュは思う。
 何しろ今日、彼の魔導士の傍には、アイシュと皇太子の依頼により、彼の弱点が、朝から御目付と自称して、仕事の見張りに立っているのだから。
 この護符の効力がどれほどのものか、亜麻色の髪の文官には良く判っている。
 大地そのもののような力強さと、夏の日差しのような笑顔の少女。
 傍に居てくれるのなら、なんでもする、と、彼(か)の色事師をして言わしめた娘。
 彼女が魔導士との未来を選んだ時、周りの男達が、どれほど臍(ほぞ)を噛んだ事か……
 今日はその言葉通り、筆頭魔導士は書類整理に精を出している。
 花ならぬ、書類に埋もれる魔導士を想像して、アイシュは小さく笑った。
 

 さて、王宮が誇る天才文官。アイシュ・セリアンのささやかな幸せは、常に脆くも崩れ去る運命にあるのだろうか?
 目的地に辿り着き、その樫の木材で出来た重厚な扉に取り付けられたノッカーに手を伸ばす。
 その時。
「あっ……」
 ほんの僅かずれた扉の隙間から、妙な声が聞こえた。
「はい?」 
 暢気に暢気に、音の出所を確かめるべく耳をすませたアイシュへ、次なる声が聞こえてくる。
「…う…あっ……メイ……」
 途切れ途切れの、吐息のようなその声は、紛れも無く自分が書類を渡す筈の相手。
 苦しげな、それでいて艶っぽい声に、青年文官は首を傾げた。
――シオン様?――
 お腹でも痛いのだろうか?やはり暢気にそんな事を考えながら、もう一度ノッカーに手を伸ばす。
 しかしその手は、再び漏れ聞こえた声に止められた。
「……んふふ……シオン。気持ちいい?」
 密やかな含み笑いに混じって、少女の囁きが発される。
「ああ……すげ〜イイぜ……」
 吐息交じりの返答と、ギシギシと軋む家具の音に、今度こそアイシュは固まった。

 ノッカーに手を伸ばしかけたまま、緑の瞳は壜底眼鏡の奥で極限まで見開かれ、ここまででかい目になると、瞬きも難しいらしく瞼は微動だにしない。
 呼吸も止まりそうな中、思わず緩みかける腕に力を篭めて書類をしっかりと抱きしめたのは、文官としての本能だろうか?
 生来、アイシュは、その天才的な頭脳に反比例する壊滅的な運動神経と連動して、かなり恋愛方面には疎く出来ている。
 しかし、この部屋の主が、クラインきっての艶福家(えんぷくか)であるのは、よく知っているし、流しまくった数知れない浮名をあっさり捨てて、一人の少女に入れ込んでいるのも御馴染みである。その岡惚れされて入れ込まれている少女と当の魔導士は、現在この部屋の中で二人っきり……
 更に、一連の洩れ聞こえる会話と物音から導き出される答といえば……
――はううううう〜〜シオン様〜メイ〜――
 健全な20歳前後の青年らしい妄想が、一気に頭の中を駆け抜けた。
 それがまた、純真無垢とも言える、耐性の出来ていない精神に打撃を加え、まるで自分が国家の大罪を犯しているような気分にさせる。
 どうしたら良いのだろう?このままでは、つまりただの出歯亀ではなかろうか。
 しかし、のどかな午後の日差しに憩うような王宮の廊下は、しんと静まり返っている。ここで自分が動いたら、目聡い二人のことだ、確実にばれてしまう。いや、別に自分は仕事で此処に来たのだし、ばれた所で構わない筈なのだが、場面が場面だけに、なんとも気恥ずかしい。この扉の隙間から、自分がたてる音も中に聞こえるのではないだろうか?第一、ドアが完全に閉まっていれば、声など聞こえず、自分は何も考えずにノッカーが持て、こんな思いはしないで済んだだろうに……いやまてまて、能天気にノッカーを鳴らし、邪魔をされたと筆頭魔導士の悋気(りんき)を受けずに済んだのは、不幸中の幸いなのかも……しかし、このままでは、さらに恥ずかしい事態が、待ち受けているのではないだろうか?だが、果たして、此処で音を立てて、二人の邪魔をして良いものかどうか、それに、自分が盗み聞きしていたなんて、二人に知られたくないし、どんな恐ろしい事態がおこるか容易に想像がつく。でも、此処に来たのは仕事なのだ、この書類にサインを貰わねば、帰るに帰れない……
 堂々巡りする思考を断ち切ったのもまた、密やかで艶やかな、魔導士の声である。
「うっ・・・く・・・メイ・・お前さん・・上手すぎ・・・」
「シオンが感じやす過ぎるんだよ……」
 いっそのこと、悲鳴をあげて逃げていってしまいたい。
 滝涙を流しながら、アイシュは書類を抱きしめて硬直した。


 筆頭魔導士の執務室の前で、触れなば落ちん儚げな風情で立ち竦む兄の姿を見つけて、キール・セリアンは眉を顰めた。
――何やってんだ、あいつ?――
 青年魔導士は機嫌が悪かった。
 王宮に来るとき、彼は大抵機嫌が悪いのだが、今日も例に漏れず、気分は最悪である。
 妻を娶り、ラボラトリーを構えたものの、いまだ魔法研究院での職務もあり、忙しい毎日を送っている彼は、定期報告書を提出する期限でなければ、こんな場所には近づかないのだが、今日は部屋の主である先輩に用があるからと呼ばれて、研究を中断し、嫌々やってきたのだ。
 だが、緋色の魔導士の明晰な頭脳は、兄の姿を見た途端、早くも警鐘を鳴らし始めていた。
 回れ右で帰ろうと、どれほど思ったことか。
 それでも、時折ぴくりと肩を振るわせる兄の様子が気になって、得体の知れない雰囲気が待ち受けるその場所へ、ため息をつきつつ歩き出す。

「兄貴、何やってんだよ?」
 すぐ横で、無遠慮に不機嫌な声をかけられ、アイシュは大げさに飛び上がった。悲鳴もあげず、書類も撒き散らさなかったのは、奇跡に近かったかもしれない。
 だがアイシュは、その壊滅的な運動神経からは想像も出来ない俊敏さで身を翻すと、第二声を発さんと口を開いた弟に抱きつき、両手と口の自由を奪ったのである。
 これも一種の奇跡かもしれない。或いは火事場の馬鹿力か……?
 これにはキールも仰天した。
「ふが・・なごもご……(なんなんだ!?)」
 双子は、ほぼ十年ぶりにしっかりと抱き合っていた。
『だめです〜〜今声をだしちゃ〜〜!』
 耳元で必死に囁く兄に鳥肌を立てつつ、何とか振り払おうと身を捩るが、日ごろ重い本や書類と格闘しているアイシュの膂力(りょりょく)は意外なほど強く、生半(なまなか)なことでは引き剥がせそうに無い。
 それでも、たとえ兄とはいえ、男に抱きつかれる気色悪さにキールがじたばたと抵抗を繰り返していると、扉の向こうから、筆頭魔導士の艶声が漏れてきた。
「ああっ……う……」
「!?」
 ぴたりとキールの動きが止まる。
 兄弟揃って恋愛音痴とはいえ、流石に兄より先に一家を構えただけあって、その艶めかしい声に対しての反応は早かった。
 その耳に、ギシギシと家具が軋むリズミカルな音が届く。
 兄と同じく、緑の瞳が見開かれる。
 伊達眼鏡と壜底眼鏡、その奥で同じ形になった瞳同士が、まじまじと見詰めあう。
 滝涙にけぶる兄の視線が、困惑とともに頷き、現状の困窮を伝えた。
 これたけで全てが伝わるのだから、やはり双子というべきか?
 キールは脱力感と共に、深いため息を吐き出した。
『何やってんだよ、あの人は……!』
 知らず声を潜めながら、ようやく離れてくれた兄に、扉を指し示して文句を言う。
『僕に言われても、こまります〜〜』
 顔を寄せ合い囁きあう双子へ、さらに追い討ちがかかった。
「……うっ……メイ……そろそろ、勘弁して……くれ……」
 びくん、と、アイシュの肩が揺れる。
「……なんで?」
 実に楽しげに、緋色の魔導士の保護下にあった少女が尋ねる。その声は少しだけ弾んでいた。
「……もうすぐ……う……キールが……来るから……あっ……アイシュも・・来るだろうし……くっ・・」
 家具の軋みがひときわ高く響く。
「くふふふ……ダ〜メ♪気持ち良いんでしょ?」
「ああ……めちゃくちゃイイぜ……」
 耳を塞ぎたくなるような会話である。事実、アイシュは泣きながら両耳を塞いでいた。書類は既にキールに避難させている。
 来たくも無い場所に来た上に、余計な荷物を持たされ、身動きできない状況に、キールの額に太い青筋が浮かぶ。
『あいつら……時と場所を、選べないのか!?』
 非常に正論であるだろうが、やはり声を潜めたままなので、何処となく情けないものがある。
 そしてアイシュは、弟の怒りにただ力無く頷くだけだった。
 立ち尽くす双子に、容赦の無い軋み音と、聞きたくも無い男の艶声が浴びせられる。
 

『もう……我慢できん……文句言ってやる!』
 ふるふると怒りに震えながら、キールは扉のノッカーへ手を伸ばす。それをアイシュが再び抱きついて止める。
『駄目です〜〜そんな事したら〜〜!』
『放せよ、兄貴!』
『いけません〜〜あっ!?』
 激しく首を振った途端にバランスを崩して倒れかける。
 キールは慌てて抱きとめた。
『気をつけろよ、兄貴』
『ありがとう〜キール〜〜』
『いや、んなことより、俺は文句を言うぞ』
『だから駄目ですって〜〜!』
 静かに静かに揉みあう双子という、実に珍しい状況を、首を傾げながら眺める白い影。
 クライン国皇太子、セイリオス・アル・サークリッドは、親友の執務室の前で、不可思議な格闘を繰り返す兄弟を、興味深く見守っていた。
 常日頃は、兄の一方的な片思いのように、並んで立つ事すら嫌がる弟だが、ついに兄の情熱に絆(ほだ)されたのか、抱きつかれたり抱きついたりと、なんとも気色の悪い痴態が演じられている。
 政務の合間の息抜きに、妹の茶会に招かれて赴(おもむく)く途中ではあったが、こちらの方が面白そうだ。
 かくして皇太子は、地獄の一丁目に、散歩気分で足を踏み入れた

『放せよ、兄貴』
『だめですよ〜〜』
『何が悪いってんだよ!』
 じたばたと揉みあう兄弟に、物柔らかな声がかけられた。
「何をしているんだ?」
「「!?」」
 次の瞬間。とんでもない不敬罪が犯された。
 後に皇太子は語る『二人が双子だと、あれほど痛感した事は無かったよ』
 同じ大きさの手が、二重に皇太子の口を塞ぎ、両腕は左右からがっちりと固定され、国王に次いで最も敬われるはずの青年は、双子によって半ば拉致されていた。
 その間まったくの無音。
 目にも鮮やかな連携プレーである。
「うぐ……」
『殿下……音を立てないでください……どうぞこのままお帰りください……』
『すみません〜〜お願いします〜〜』
 左右から双子が囁く。
 咄嗟の事に抵抗も出来なかったのを不覚と思いつつも、皇太子はなるべく鷹揚(おうよう)に頷いた。
 しかし、双子の懇願は無用となった。
 何故なら、扉の向こうから、状況を完璧に説明する声が聞こえてきたからである。
「あっ……メイ・・そこ……イイ……」
 物に動じぬ筈の皇太子が、その瞬間固まった。
 アイシュの背中がびくんと反応する。
 キールは小さく小さく舌打した。
「ここイイの・・?」
「ああ……そこ……」
 なんとも言い様のない沈黙が、廊下全体を支配する。
 静まり返った空間に、時折漏れる喘ぎと、家具の軋み。
 開放された皇太子は、頭を抱えた。
『あいつは、何をしてるんだ?』
『聞いた通りです……』
 苦々しく青年魔導士が吐き捨てる。
 文官は泣きつづけていた。
 そんな三人に、痛恨の一撃が加えられた。
「シオン……力入れちゃ駄目だよ・・」
「……う……んなこと言ってもな……ぉっ」
「硬いね……指が入んないよ……」
「「「!?」」」
『殿下ぁ……どうしましょう〜〜』
 アイシュは既に錯乱寸前であり、キールの青筋は今にも破裂しそうだ。そしてセイリオスは、親友が妙な道に目覚めたのかと、真剣に心配になってきた。
 まあ何にせよ、恋人同士でやっている事に口出しするのは野暮の極みかもしれないが、このまま放置して置いたら、優秀な人材に悪影響が出かねない。
 最高の責任者は、常に最大のリスクを被る覚悟を持たなければならない。これは皇太子の座右の銘である。
 そう、そのリスクが、どんなにくだらない事であったとしても。
 こういう後継者を持つこの国は、実に恵まれていると言えるだろう。
『私が意見をしよう、二人とも下がっていなさい』
 威厳を持って、それでも声を潜めていしまうのは致し方ない。
 皇太子は、覚悟を決めてノッカーを握り締めた。

「お兄様、こんな所にいらっしゃったの?」
 緊張の瞬間を叩き壊す、能天気な声が、廊下の外れから響き渡った。
 さしものセイリオス殿下も、この攻撃に蹈鞴(たたら)を踏み、叩こうとしていた扉に、うっかり寄り掛かってしまった。
 僅かに開いていた扉は、人一人の体重など支えてくれず、あっさりと内側へ開いていく。当然、扉と共に皇太子は室内へと崩れこんだ。
「「殿下!?」」
 皇太子を追いかけて双子が飛び込む。
 慌てて立ち上がったものの、ノックをするという猶予期間を持たなかったが為に、当然繰り広げられているであろう状況を見ないように、三人が顔を背けていると、実に能天気な声が振ってきた。
「あっれ〜?殿下にアイシュにキール。どうしたの?」
「なんだよお前さん等、団子になって」
 部屋の主とその恋人である。
 三人は、恐る恐る二人を振り返った。
「………………お前たち……何をしているんだ?」
 執務室に備えられた応接用の長椅子に、筆頭魔導士の長身が長々と寝そべっている。着衣のまま、うつ伏せに。
 その広い背中には、小柄な少女が馬乗りになり、両手を背骨に沿わせて指を立てている。
 少女はうっすらと汗をかいているものの、着衣の乱れもなく、ニコニコと三人を見返していた。
「見て判んない?按摩してたの。シオンが肩凝ったってぼやくから。んっとにオジン臭いよね〜〜」
 三人は一気に脱力した。


「やはりここに来て正解でしたわ♪メイ、このケーキ美味しいでしょう?」
「うんうん♪さいっこう♪」
 王女のお茶会は、ケーキ持込で筆頭魔導士の執務室で開催となった。力仕事の後の一服を楽しむ恋人に、手ずから紅茶を振舞って、ついでに闖入者三人にも、絶品と噂される筆頭魔導士の紅茶が回される。
 賑やかな少女二人と、なんとも妙な沈黙の男四人。
「ん〜〜シオンの紅茶に美味しいケーキ♪今日は良い日だわ♪」
「本当ですわ〜♪さあ、お兄様もどうぞ召し上がれ♪」
「ああ……戴くよ……」
 微笑んで頷く皇太子に、疑わしげな親友の視線が突き刺さる。
「んで?お前さん達。何やってたんだ?」
 ごほっと文官が紅茶に咽(むせ)る。
「ん?ど〜したアイシュ」
 首をかしげる魔導士に、青年文官は冷や汗をかきながら膝に乗せていた書類を突き出した。
「ぼ……僕はこれにサインを戴きに来たんです〜お願いします〜」
「俺は、シオン様に呼ばれたんです。用事はなんですか?」
 仏頂面で緋色の魔導士が紅茶を啜る。
「私は通りかかっただけだよ。尤も、ディアーナのお茶会に来たのだから、ここが目的地になってしまったけどね」
 無敵のロイヤルスマイルが何事も無かったかのように返される。
「なんだかなぁ……」
 今一納得していないような魔導士に、三人三様の誤魔化しと沈黙で、空騒ぎした失態を隠し通したのであった。

 そして、キールはますます王宮に来るのを嫌がるようになり、アイシュは筆頭魔導士の執務室を鬼門として逃げ回り。皇太子は、さりげなく親友への仕事を増やした事を書き留めておくことにしよう

ちゃんちゃん。


言い訳
あは・・あは……あはははは
いえ、ちょっと壊れてます……ああ、まとまりがない……
いえね、実話なんですよ。これ(;^_^A
知り合いの女の子按摩したら、実に色っぽく鳴いてくれたので……
あははは……
逃げます。探さないでください。